シャルトリューズを知る
最終更新日:2022年7月31日
グランド・シャルトリューズ修道 CC BY 2.5, リンクシャルトリューズ(Chartreuse)はフランスのグランド・シャルトリューズ修道院(カトリック教会に属する修道会の1つであるカルトジオ会の修道院の総本山)が製造しているハーブ系・薬草系リキュールの銘酒です。
フランスの宮廷人だったフランソワ・アンニバル・デストレから1605年に贈られた「エリクサー(不老長寿の霊薬)」について書かれた写本を元に1737年に完成されました。その製造法は門外不出の秘伝とされており、リキュール造りを任された2人の修道士だけが知っているそうです。130種類あると言われる材料の種類とその調合方法は現在も謎に包まれています。
2007年にはフランス文化の優れた継承者たる職人に与えられる最高の称号である国家最優秀職人賞(M.O.F)のリキュール部門を(Liqueur des Meilleurs Ouvriers de France)授与されました。
シャルトリューズの飲み方は、ストレートやロックで飲むのが基本的なスタイルですが、ソーダやトニックで割ったり、カクテルの材料としても使われます。
アルコール度数
40 〜 55%
02シャルトリューズの歴史
写本の伝承から100年の時を経て完成されたエリクサー、シャルトリューズ・ヴェール
シャルトリューズ・リキュールの歴史は「エリクサー」について書かれた古い写本から始まります。エリクサーとは不老長寿をもたらすとされる幻の霊薬です。おそらくこの写本はエリクサーの完成を目指して日夜研究に没頭していた16世紀以前の錬金術士によって書かれたものでした。
17世紀初頭の1605年、パリ郊外の小さな街ヴォヴェール(Vauvert)のカルトジオ会の修道士が当時フランス王アンリ4世の軍司令官だったフランソワ・アンニバル・デストレ(François-Annibal d'Estrées)から写本を贈られたというのが最初の記録です。
この写本は非常に難解で、内容の理解できたほんの一部だけがヴォヴェールでの薬草治療に使われました。
それから約100年の時を隔てた18世紀の初め、写本はグランド・シャルトルーズ修道院に送られました。修道院では写本の解読のための徹底的な研究が行われました。その結果、1737年に薬剤師のジェローム・モーベック修道士がついにエリクサーの製法を解き明かし、シャルトリューズ修道院で薬酒の製造が始まりました。
当初はグルノーブル(Grenoble)や近隣の村で細々と売る程度でした。このエリクサーはその美味しさから薬というより飲料として扱われました。なおこの原初のエリクサーは現在「エリクシル・ヴェジェタル(ELIXIR VEGETAL)」として復刻製造されています。
エリクシル・ヴェジェタル CC BY-SA 3.0, リンク1764年、レシピをよりマイルドにしたところ絶大な人気となりエリクサーはグランド・シャルトリューズ以外の地域にも広く知れ渡っていきました。これが現在の「シャルトリューズ・ヴェール(CHARTRUSE VERTE)」です。
レシピ根絶の危機を乗り越えて生み出されたシャルトリューズ・ジョーヌ
1789年にフランス革命が起こり特権的階級に属していたキリスト教の聖職者達は修道会の解散と国外退去を命ぜられ、修道院や教会への略奪や破壊が行われました。そうした中でカルトジオ会の修道士達は1793年にフランスを去ることとなりました。その際「エリクサー」の写本のコピーを作って、グランド・シャルトリューズ修道院に残ることになった1人に託しましたが、彼は修道士達が修道院を去った直後に逮捕されて刑務所に送られてしまいました。
幸い写本のコピーのオリジナル側を任されていた修道士は検挙されず、写本を友人のドム・バジーレに秘密裏に渡しました。
ドム・バジーレは、自分にはエリクサーを造る能力がないしフランスに修道会が戻ることはないと考えて、薬剤師のリオタールに写本を売り渡しました。
リオタールは、1810年にナポレオン皇帝から「秘伝」とされている全ての薬の処方を内務省に送るようにとの勅命が下された際に写本を提出しました。しかし、これは既知のもので「秘伝」とはみなされないとして返却されました。リオタールは一度もエリクサーを造ることなく亡くなりました。
このように、シャルトリューズのレシピが書かれた写本は非常に数奇な境遇を乗り越えて、1816年に修道士達がグランド・シャルトリューズ修道院に戻った後、リオタールの相続人によって修道士達の手に戻されました。
その後1838年、シャルトリューズの蒸留所はより甘い種類のリキュールを作りました。これが現在も造られている「シャルトリューズ・ジョーヌ(CHARTREUSE JAUNE)」です。
1860年、 サン・ローラン・デュ・ポン(Saint-Laurent-du-Point)という小さな村の近くにあるフルヴォワリ(Forvoirie)の地に蒸留所を建てて、エリクシル、ヴェール、ジョーヌ、ブランシェ(シャルトリューズ・ホワイト1840年〜1880年及び1886年〜1900年まで造られた)の製造を拡大しました。
シャルトリューズブランドの接収と幾多の苦難を乗り越えて
1903年、フランス政府はシャルトリューズの蒸留所を国有化し再び修道士は追放されました。
彼らはすぐにスペインのタラゴナ(Tarragona)に新しい蒸留所を建ててリキュール造りを再開しましたが、フランス政府が「シャルトリューズ」を国有化し、しかも数年後には修道会とは何の関係もない「グランド・シャルトリューズ・ファーマー・カンパニー」という民間企業に売却してしまったため、その名前を名乗ることができませんでした。
タラゴナで造られたリキュールは「タラゴナ」という愛称で呼ばれ、それが本物のシャルトリューズであることは誰もが知っていたため、本物を望んでいた人は「タラゴナ」を買い求めました。
1921年に修道士達はタラゴナの蒸留所の運営を続けつつもフランスに戻り、マルセイユに蒸留所を構えました。
タラゴナで蒸留したアルコール成分を混ぜてリキュールを造り、愛称ではなく正式に「タラゴナ」という名前で売り出しました。タラゴナは当時スペインの名前を持つ唯一のリキュールでしたが、フランス産という面白い状況でした。
「シャルトリューズ」の商標権を買った企業が1929年に破産したため、修道士の友人達はこれを買い取って彼らに提供しました。おかげで、カルトジオ会は「シャルトリューズ」の商標権を取り戻しただけでなく、マルセイユからフルヴォワリの蒸留所に戻り、真のシャルトリューズ造りを再開しました。
ヴォワロンの貯蔵庫 CC BY-SA 3.0, リンクしかしそれもつかの間、1935年に地すべりによってフルヴォワリの蒸留所が崩壊するという災難が起こってしまいました。破壊を免れた貯蔵用のオーク樽と銅製の蒸留機は、彼らのエージング・セラー(熟成用の貯蔵庫)があったヴォワロン(Voiron)の町へ運ばれ、以来、ヴォワロンでのシャルトリューズ造りが続いています。ちなみにこのヴォワロンのエージング・セラーは1966年に164メートルまで拡張され、現在では世界最長のリキュール貯蔵庫となっています。
タラゴナの蒸留所の運営が1989年に終了して以降2017年まで、すべてのシャルトリューズはヴォワロンで造られていました。2011年にリキュールの生産地の環境についての法規制が強化されたことを受けて、2018年以降はアントル・デュー・ギエ村(Entre-Deux-Guiers)のエグノワール(Aiguenoire)に新たに建てられた蒸溜所でシャルトリューズ造りが行われています。
なお1970年以来、「シャルトリューズ・ディフュージョン(Chartreuse-Diffusion)」という会社が、2人のカルトジオ修道士によって調合された製品の瓶詰、包装、広告、販売を担当しています。シャルトリューズの販売によって得られる資金によって、修道会は俗世間から離れた静寂の中で祈りを捧げ、禁欲的で規律正しい生活を送る修道活動を維持してるようです。