カクテルの歴史

カクテルの歴史

最終更新日:2022年9月3日

カクテルは19世紀にアメリカで生まれたとされています。その歴史について詳しくみてみましょう。

01カクテルという言葉以前

現代に伝わっているカクテル文化は19世紀にアメリカで始まり20世紀に世界に広まったものですが、お酒に何かをミックスする風習は古来から行われてきました。

古代ギリシャや古代ローマではワインを水で薄く割って飲むのが一般的でした。アルコール濃度の高い原酒を飲むのは野蛮な行為と考えられていたり、ワインは水より腐敗しずらく保存が効くため飲用水として飲まれていたということが理由としてあります。
また古代エジプトではビールにハチミツやショウガなどを加えたものも流通していました。これは、雑味を整えてより飲みやすくするために生まれたものと思われます。
時代が飛んで7世紀頃、唐の時代の中国ではワインに馬乳を混ぜた乳酸飲料のような酒が飲まれていたそうです。また13世紀の元の時代でも宮廷ではワインに馬乳やラクダ乳を混ぜた飲み物が飲まれていたことが記された文献があります。

14世紀以降、小氷期と呼ばれる気候の寒冷化が起こり、中世ヨーロッパではワインやスピリッツ に薬草やスパイスなどを加えて温めて飲むホット・ドリンクが流行しました。この飲み物は現代でもフランスではヴァン・ショー(Vin chaud)、ドイツではグリューヴァイン(Gluhwein)、北欧ではグレッグ(Glogg)として飲まれています。

17世紀前半、イギリス統治下のインドでアラック(ヤシの樹液から作られたスピリッツ )、砂糖、レモン果汁、水または紅茶、スパイスの5種類の材料を大きなボウルに入れて作り、注ぎ分けて飲むパンチ(Punch)というミックス・ドリンクが作られました。パンチはイギリス東インド会社の船員や従業員によってイギリス本国に伝わりました。小氷期は続いており、イギリスでは温めて作るホット・パンチとして広く飲まれました。これが、カクテル文化の源流となったとも言われています。

パンチと似た飲み物に、パンチがイギリスに伝わる前からドイツで飲まれていたとされる「ボーレ」や18世紀〜19世紀のスペイン発祥とされる「サングリア」があります。「ボーレ」は大きなボウル(ボーレ)に白ワイン、薬草、果物、砂糖を加えて作ります。「サングリア」は大きな容器に赤ワイン、果物、砂糖や蜂蜜、スパイス、風味付けのブランデーまたはジンなどを加えて作ります。

このように、カクテルという言葉は存在しなかった時代にも、現代でいうカクテルな飲み方は様々に存在していました。

02カクテルの誕生

カクテルに関する最初の記録

「cocktail」という言葉が登場している最も古い文献について、1748年にロンドンで出版された「The Squire’s Recipes」という小冊子という説が出回っていましが、これについて情報源を調べても海外の情報がほとんど見当たらず、でっちあげとの情報もあり信憑性が低いのではないかと思われます。

「cocktail」という言葉が最も古い記録として確からしいのは1803年4月28日付の「ファーマーズ・キャビネット(Farmers Cabinet)」というアメリカのニューハンプシャー州の新聞記事で「カクテルをグラス一杯飲んだ、すると頭がスッキリした(Drank a glass of cocktail, excellent for the head…)」というような記述だったとされていますが、実物は残っていません。

カクテルの定義について言及しているものとして最も古い記録は1806年5月13日付の「バランス・アンド・コロンビアン・レポジトリー(The Balance and Columbian Repository)」というニューヨーク州ハドソンの新聞でした。先に5月6日の紙面で「民主党候補者が cocktail を飲んで選挙戦を戦っている」と報じたことに対する「カクテルとは何か」という読者からの問いに編集者のハリー・クロスウェル(Harry Croswell)が回答した文が掲載されています。「カクテルとは刺激的な酒で、さまざまな蒸留酒、砂糖、水、ビターズでできています。俗にビタード・スリング(bittered sling)と呼ばれ頭を混乱させると同時に心を強く大胆にすることから、選挙運動には最適な飲み物と言えるでしょう。度胸の良さや勇敢さを与え、同時に酩酊させるからです。また、民主党候補者にはとりわけ役に立つという説もあります。グラスいっぱいのカクテルを飲んでおけば、なんでも飲み込むことができるためです。」というような選挙活動と絡めた風刺めいた記述でした。この新聞は実物が現存しています。
これにちなんで1806年はカクテルの誕生年とされたり、5月13日はカクテルの日とされていたりします。実際には1806年5月13日にカクテルが誕生したわけでもなく、それ以前からカクテルという言葉や飲み物が存在していたはずですが、世間一般に広く知られているものではなかったことがうかがえます。

初期のカクテル

ミキシング・グラスなどの器具を使ったりして作る現代式のカクテルの明確な起源は不明ですが、19世紀のアメリカで始まったとされています。
「アメリカのバーテンダーの父」とも呼ばれるジェーリー・トーマス教授("Professor" Jerry Thomas、実際に教授だったわけではなく敬愛を込めてそう呼ばれていました)が1862年に出版した「Bar-Tender's Guide(How to Mix Drinks or The Bon-Vivant's Companion)」(バーテンダーズ・ガイド:飲み物の混ぜ方、あるいは美食家の友)はカクテルのレシピが掲載された最初のガイドブックでした。パンチ、サワー、スリング、コブラー、トディ、フリップなどの様々なスタイルのミックス・ドリンクの並ぶ1つのスタイルとして「カクテルとクラスタ(THE COCKTAIL & CRUSTA)」という項目で10種類のレシピが掲載されていました。この中で「カクテルは近代的な発明」また「クラスタはカクテルを改良したもの」と書かれています。現在では「カクテル」というと、パンチやサワーなど他のスタイルも全てをひっくるめたミックス・ドリンクの総称となっていますが、この当時はそうではなかったということが分かります。カクテルが他のスタイルと異なる点はビターズを使っていることでした。

現在も飲まれているこの当時のカクテルには、オールド・ファッションドマンハッタン、サゼラックなどがあります。
オールド・ファッションドとは「古風な」といった意味ですが、19世紀終わりには既にそのように呼ばれており、当時次々に生まれていたより新しく複雑なカクテルと昔からのカクテルを区別するために付けられた呼び名でした。

19世紀は連続式蒸留機が発明されて従来のものよりクリアな蒸留酒が大量生産されるようになった時代でもあります。蒸留酒の普及と共に多くのレシピが生み出され、社交界に浸透していきました。マティーニなど現在スタンダードといわれるカクテルの多くは19世紀後半から20世紀初め頃に誕生しました。

カクテルが生まれた19世紀後半は、製氷機が実用化されて人口の氷が手に入るようになった時代ともちょうど重なります。それ以前の時代は飲食物を冷やすのには天然の氷雪を使っており、氷は今ほど手軽に使えるものではありませんでした。19世紀初め頃から様々な冷凍機が発明されていましたが、1870年代にドイツのミュンヘン工業学校のカール・フォン・リンデ教授(Carl Paul Gottfried von Linde)が発表した冷凍技術が初めて商業的に成功して製氷機が普及しました。氷は現代式のカクテル作りに欠かせないものであり、製氷機の普及なくしてカクテル文化の誕生と普及はなかったのではないでしょうか。

03世界へのカクテルの伝播

アメリカで誕生したカクテルが世界に広まったのは、1920年から1933年にアメリカで禁酒法が施行されたことが要因として挙げられます。
お酒の製造・販売などが禁止されたアメリカですが、スピークイージー(speakeasy)と呼ばれる潜り酒場では隠れてお酒が提供されており、急な摘発があった際に見た目もジュースのようで一気に飲んでしまえるカクテルが人気となりました。違法に造られた粗悪な酒の不味さを隠すのにも甘さを加えたカクテルが一役買いました。最初からジュースのように見えるカラフルなリキュールも人気を集めました。また、熟成の必要なウイスキーと異なり違法に製造・入手しやすいジンが主流となりました。
一方、禁酒法により職を失ったり、違法な酒場で働くことを避けたバーテンダー達がヨーロッパへ渡り、カクテル文化がヨーロッパに広がりました。

他には19世紀後半から20世紀前半にかけて世界中に植民地を持っていたイギリスの影響もありました。世界各地のイギリス領で建設された高級ホテルのレストランやバーでは、アメリカで人気のカクテルが提供されただけでなく、一流のバーテンダー達によって新たなカクテルが生み出されました。

20世紀初め頃にはバーテンダー達によって様々なカクテル・ブックが出されました。中でもイギリスのロンドンの高級ホテルであるサヴォイ・ホテル(The Savoy)のチーフ・バーテンダーだったハリー・クラドック(Harry Craddock)が1930年に編纂した「サヴォイ・カクテルブック(The Savoy Cocktail Book)」はカクテル・ブックのバイブル的存在と言われています。

第二次世界大戦後の1950年代に入ってカクテルはより急速に世界に広まり各地で名カクテルが生みだされるようになりました。
フランスで生まれたキール、イタリアで生まれたベリーニ、ベルギーで生まれたブラック・ルシアン、プエルトリコで生まれたピニャ・コラーダなどが有名です。

1960年代後半から1970年代にかけて、それまでアメリカで伝統的で由緒あるお酒として飲まれてきたバーボン・ウイスキーの消費量が激減し、ウォッカをはじめとしたホワイト・スピリッツがの消費が増えました。これは白色(無色透明)のスピリッツ が従来主流だった茶色系のスピリッツにとって変わったということでホワイト・レボリューション(白色革命)と呼ばれ、世界的にも同様の現象が見られました。
これに伴ってホワイト・スピリッツをベースにしたカクテルが主流となっていきました。
1980年代にはジンの代わりによりくせのないウォッカがベースとして好まれるようになりました。マティーニもジン・ベースではなくウォッカ・マティーニがよく飲まれました。

2000年代に入って伝統的なカクテルの人気が復活しました、その一方で素材にこだわり独創性や芸術性を探究して新たなカクテルを生み出すミクソロジーという考え方が注目され、そういったスタンスで活動するバーテンダーをバーテンダーではなくあえてミクソロジストと呼ぶなど、カクテルの新時代を切り開こうとする新たな潮流となっています。

日本へのカクテルの伝来

日本にカクテルが伝えられたのは1880年代中頃、明治初期の鹿鳴館時代と呼ばれる欧化主義の時代でした。ですが、鹿鳴館のような上流社会の社交場で一部の人が口にするだけでした。
1910年代以降、大正時代になって下町にバーができると、一般市民にも知られるようになりました。昭和時代に入って都市部にはバーが増えていきましたが、客層は富裕層に限られていました。
その後、日中戦争や太平洋戦争が起きていく中で海外からのお酒の輸入は激減し、飲食店の営業が禁止されるなど、カクテルは全く飲まれなくなりました。
1949年に酒類の自由販売と共に飲食店の営業が解禁され、1950年代半ばにはトリスバーと呼ばれる庶民向けのバーが大流行して、ハイ・ボールだけでなく様々なカクテルが広く飲まれるようになりました。

04カクテルの語源

ここまでカクテルの歴史について見てきましたが、最後にカクテルという言葉の語源についてまとめてみたいと思います。結論からいうと語源が不明であるがゆえに様々な説が語られていて、どれが本当なのかは不明です。

「メキシコの王の娘の名前」説

19世紀初め頃、アメリカ南部の州軍とメキシコの王アホロートル8世との間で戦闘が繰り返された後に休戦協定が結ばれることになりました。メキシコ王の大テントにアメリカの将軍が和平の条件を協議するために赴きました。その際のお話です。
王が飲み物を命じたところ、息を飲むような美女が珍しい飲み物が入った杯を持って現れたが、不穏な静けさがその場を覆いました。杯がたった1つしかなく、王か将軍かどちらかが先に飲まなければならず、それは後になった方への侮辱となるからでした。高まる緊張の中、状況を察した女性はにっこり微笑むと一同に向かって頭を恭しく下げた後で、自分で飲み物を飲み干しました。
緊張はすっかりほぐれ、交渉は満足のいく結果で終わりました。将軍はテントを去る前に女性の名前を尋ねたところ、王は自慢げに「あれは余の娘、コクテル(Coctel)じゃ」と答えました。そして、コクテルがカクテルになりました。
この説は前述の「サヴォイ・カクテルブック」に掲載されている説ですが、そういった名前のメキシコ王がいた史実はなく「疑問を挟む余地のない証拠があるが、残念ながら質問に答えるわけにはいかない」などとあり、これはハリー・クラドックによるジョークの作り話と思われます。

「コーラ・デ・ガジョ(雄鶏のしっぽ)」説

その昔、メキシコ・ユカタン半島のカンペチェという港町にイギリスの入港しました。上陸した船員達が入ったある酒場でのことです。
カウンターでは少年がきれいに皮をむいた木の枝をマドラー代わりにしてミックス・ドリンクを作っていました。当時のイギリス人にとってお酒はストレートで飲むのが普通で、混ぜているのが珍しい光景だったため、一人の船員が「それは何?」と聞きました。すると少年は木の枝のことを聞かれたと勘違いして「コーラ・デ・ガショ(Cora de gallo)です」と答えました。スペイン語で「雄鶏の尻尾」という意味ですが、枝の形がそれに似ていたため少年はそう呼んでいたのでした。これを英語にすると「テイル・オブ・コック(Tail of Cock)」で、船員達はミックス・ドリンクをそう呼ぶようになりました。この呼び名が広がる過程で「カクテル(Cocktail)」に変化しました。
この説もまたメキシコ王の娘説と同じくハリー・クラドックによるもので、ルーカス・デ・パラシオ(Lucas De Palacio)という人物から聞いた話として1936年1月に発行されたイギリスバーテンダー協会(United Kingdom Bartender's Guild、U.K.B.G.)の機関誌『ザ・バーテンダー(The Bartender)』に掲載されました。こちらの説はメキシコ王の娘説より信憑性がありますが、定かではありません。

「コックズ・テール(雄鶏のしっぽ)」説

アメリカ独立戦争中の1779年の話。ニューヨークの北にあったとある酒場での話です。念のため前提を説明すると、当時アメリカはイギリスの植民地で、フランスの協力を受けつつイギリスから独立する戦争をしていました。話に入ります。そこはベッツィ・フラナガン(Betsy Flanagan)という女性が開いている酒場で、彼女がつくる「ブレイサー(Bracers)」というミックス・ドリンクが人気でした。酒場のそばにはイギリス人地主がの屋敷があり雄鶏を飼っていました。ベッツィはイギリス人を敵視しており、常連である独立軍の兵士達にイギリス人養鶏家から仕入れた雄鶏で作ったローストチキンをふるまう約束をしていましたが、その約束が果たされないことを度々からかわれていました。しかしある日、ベッツィーはついにイギリス人の屋敷に忍び込んで雄鶏を盗み出してしまいます。そして、アメリカ兵やフランス兵達に盗んだ鶏で作ったローストチキンを食べさせ、ブレイサーのグラスを雄鶏の立派なしっぽで飾って出しました。得意げにしっぽを指さすベッツィーを見て、自分達が食べたチキンの正体に気がついたフランス人将校が「カクテル万歳(Vive le cock's tail)!」と叫び、それがきっかけとなってブレイサーがカクテルと呼ばれるようになって広まりました。
この説は広く語り継がれていますが、ベッツィ・フラナガンはジェームズ・フェニモア・クーパー(James Fenimore Cooper)の「スパイ(The Spy)」(1821年発表)という小説に登場しており、架空の話だという意見もあります。一方、この登場人物は実在の人物を元に書かれており、伝説は事実に基づいている可能性もあります。

「コクティエ」説

1795年に、フランス領ハイチからアメリカのニューオリンズに移住してきたアントワーヌ・アメデ・ペイショー(Antoine Amédée Peychaud)はそこで薬屋を開業しました。彼は現在でも知られているペイショー・ビターズの生みの親です。彼はコニャックをベースにビターズを振った卵酒を滋養強壮の飲み物作って「コクティエ(coquetier)」(フランス語で卵屋、鳥屋、卵立てなどの意味、日本語ではコクチェとの表記もあり)という名前で提供していましたが、これが評判となりました。いつしかコクティエという名前が、同様のミックス・ドリンクの呼び名として広まるうちにカクテルという名前に変化しました。

「コック・エール」説

コック・エール(cock ale)とは17〜18世紀のイギリスで流行したエールで、通常のエールを入れた容器に皮と内臓を取った雄鶏と果物とスパイスを詰めた袋を入れて数日熟成させたもので、滋養に効く飲み物でした。これがカクテルの語源になったのではないかという説があります。

「栓から滴るしずく」説

・カクテルが生まれたのはアメリカの酒場とされていますが、酒場では樽の栓がコック(cock)、そこから滴るしずくは栓の尾という意味でテイル(tail)と呼ばれ、そこから派生してカクテルという言葉になったという説。

「カクテル・ホース」説

サラブレッドでない馬はしっぽを切る習慣があり、そうした馬はカクテル・ホース(cocktailed horses)呼ばれ、後に単にカクテルと呼ばれるようになりました。さらに、紳士の立場にありながら、育ちが悪く紳士的な振る舞いのない人をカクテルと呼ぶようになりました。一方、カクテルについて1806年の新聞の引用文で重要なのは、カクテルの材料として水をあげていることです。カクテルとはアルコール飲料の一種ではあるものの、希釈されており「純血種」ではなく、元来提供できる以上の力を発揮することを期待されており、本来の地位よりも高めたものでした。そうしたことから、劣った馬や見せかけだけの紳士を指すスラングとして先に使われており、後に飲み物としてのカクテルを指す言葉としても使われるようになったと思われます。
オックスフォード英語辞典にも載っている説であり、語源学者のアナトリー・リバーマン(Anatoly Liberman)によると、これは数人の語源学者が過去に繰り返し主張してきた説であり、正しい説であろうとされています。